2012年3月28日水曜日
2012年3月27日火曜日
●Machu Picchu
1911年7月、Hiram Binghamが、1人の少年に導かれ、アンデスの山中で発見した。
高度な石組みで作られた町並み。
太陽の運行を計算した神殿も建つ。
高度な文明を作り上げた人々は、突然町を捨てた。
聖なる都市を、スペイン人によって汚染されることを嫌い、自ら町を焼いたのだった。
中国四川省、3つの川(大渡河、青衣江、岷江)の合流地点にそびえる、高さ71m、肩幅28m、世界最大の石仏(弥勒菩薩)。
唐の玄宗皇帝の治世。
僧の海通は、自分の不注意で妻子を水死させてしまい、出家した。
およそ30年間、人々に訴え続け、寄付を集め資金を用意、713年大仏建立に着工した。
役人が海通の工事に難癖をつけ賄賂を要求した。「金を出さなければ、目玉を抉り取るぞ。」と脅す役人に対し、海通は自ら目玉をくりぬいた。
海通が命をかけて巨大大仏を建立した理由は?
楽山は3つの川の合流地点にあるため、流れが激しい上、うねりも激しく水難事故が絶えなかった。
しかしここに大仏ができると、流れが穏やかになり、事故も大幅に減った。
多くの人は、大仏のご利益だと信じたが、そうではなかった。
工事の過程に出る大量の土砂を合流地点に捨てることによって、川底を浅くし、流れを緩やかにするという治水工事を行っていたのだ。
これまで見たことのない地上絵が発見された。
古代ペルー文明で人々が埋葬される形、屈葬された人間を描いたように見える。
この乾いた大地からは、膝を抱えたミイラが多数出土している。
空から撮影した地上絵を詳しく見ると、墓の部分が女性のような人物の下腹部に描かれていた。
●Moai像
伝説では「Moaiは海辺まで歩いていった。」
実験、Moai増にロープをかけ、6方向から引っ張ると、Moaiは体を左右に揺らし、前進し始めた。
Moaiは海を背に、人々の暮らす集落を見つめている。
Moaiは村の守護神だった。
18世紀初頭、部族間で食糧不足などを巡り争いが起き、敵を倒すには霊力のある目玉を持つMoaiを倒すのが最も効果的だと人々は考えた。
Moaiはことごとく倒されていった。
Moaiを作るために木を切り、森を破壊し、食糧不足に陥っても、島の人々は敵を倒すために競って巨大なMoaiを作り続けた。
誰も文明の暴走を止めることができなかった。
●Chichen Itza
メキシコ人考古学者Alberto Ruz Lhuillierが、の中央にそびえる巨大ピラミッド、『碑銘の神殿Templo de las Inscripciones』の最上部に、階段の入口を発見した。
階段の瓦礫を取り除き、一番下の部分に降り立つまで、4年もかかった。
そして5トンもある巨大石版を発見した。
石の蓋には宇宙船のパイロットのような彫刻が施されていた。
蓋を開けると、身長190cmを超す人骨が、ヒスイのアクセサリーと共に葬られていた。
ヒスイのカケラを組み合わせると。仮面であることが分かった。
その人物は、Palenqueの王、Pacalだった。
熱帯のジャングルの中に、壮麗なピラミッドを建設し、謎めいた文字を石碑に刻んだマヤの人々。
現代のスーパーコンピューターがはじき出した太陽の公転時期を1000年以上前に知り、極めて正確な暦を持っていた。
その暦には、世界終末の時が記されていた。
それは・・・2012年12月22日。
●シーギリヤ・ロック Sigiriya (Lion's rock) is
スリランカ熱帯ジャングルに、突如姿を現す巨大な岩の塊。
高さ200m、広さ4000坪以上。
かつてここには壮麗な宮殿が建っていた。
1500年前以上に建てられた空中宮殿。
輪山に描かれた美女達。
妖艶な裸身を、惜しげもなくさらすシーギリヤ・レディ。
壁に水をかけると浮かび上がるレディもいる。(スティックのような物を持った女性の首から下)
その正体は?
一番有力な説は、農業国スリランカにとって重要な田を潤す水、つまり雨の象徴がシーギリヤ・レディだというもの。
ロックの右上に、明らかに人の手が加わった直角のラインが見える。
水路でロックの雨水を集めていたのだ。
巨大な岩山全体が、雨季に雨を貯え、周囲にあった田畑を潤していた。
シーギリヤ・ロックは巨大な灌漑システムだった。
海抜1200mを超える高原に、総面積2500k屬謀呂辰胴がる奇岩地帯。
1985年、世界遺産に登録された。
妖精の煙突と呼ばれるキノコ型の奇岩が立ち並ぶ渓谷。
1965年、謎の地下都市が発見された。(Yeralti Sehri Underground City)
地下8階まで掘られ、推定収容人員15000人。
最近新たな地下都市が続々と発見され、今では大小合わせ200以上確認されている。
誰が何のために造ったものなのか?
驚くべき説が浮上した。
「人類終末の日(ハルマゲドン)に備えた100万人規模の地下シェルター」
そしてその終末こそ、現在地球を襲う温暖化と深く関わっているという。
トルコ共和国アンカラAnkara、1923年に首都となった。
近代的都市だが、古代ローマ時代から栄えていた歴史ある町。
今でも当時の遺跡が数多く残されている。
ここからカッパドキアまで、車でおよそ4時間。
道中にある、塩の湖Tuz湖は、トルコを代表する塩の産地だった。
峠を越えると、他の惑星に迷い込んだような光景が広がる。
頭に黒い帽子を載せた、キノコのような岩が乱立する渓谷。
キノコ岩は高いものでおよそ20m。
中には自然のイタズラで、「ラクダ」や群をなす「オットセイ」、「金魚」、「キスをする2人」、「ナポレオンの帽子」と名付けられた岩もある。
「Rose Valley」夕暮れ時、オレンジ色に染まる岩は、色も形もバラの花のように見える。
この世のものとは思えない絶景。
2012年3月25日日曜日
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!doctype>2012年3月24日土曜日
■はじめに
アルコール依存症の治療の三本柱として、よく「自助グループと専門外来と抗酒剤」と言われます。
このうち抗酒剤は、体質的に使えない方もあり、さらに専門医であっても、積極的に勧める医師から、あまり重きを置いていない医師まで様々です。また、断酒しようとする人にとっての「転ばぬ先の杖」ですから、あくまでも補助的な治療と言えます。これは飲酒欲求抑制剤についても同じです。
そこで、アルコール依存症の治療のメインである、専門外来とともに重要な自助グループについて、説明致します。
なお、ここでは、まだ自助グループへ出席する事に対して躊躇されておられる方や、自助グループに対する素朴な疑問をお持ちの方を対象にまとめております。
■自助グループ誕生の物語
●それは、たった二人から始まった。
アルコール依存症からの回復を目指す自助グループであるAA(Alcoholics Anonymos)が誕生したのは、1935年6月10日と言われています。
まず、このAAの誕生物語から始めます。
アメリカのフォール街で力を発揮していた証券アナリストの ビル・ウイルソン は、大恐慌の中で全てを失ってしまいました。残ったものは、アルコール依存症としてぼろぼろになった ビル自身と、その妻だけなのです。
もっとも、ビルの酒害は、その時始まったのではありません。すでに学生時代から、かなり危ない飲酒を繰り返していたのです。
でも、アルコール問題として表面化したのが大恐慌の嵐の真っ只中だっただけの事なのです。
度重なる入退院をしながらも ビルは、ラッキーな出会いを経て、酒を切る事ができました。
そんなビルが酒を断って半年位の頃、仕事の都合で田舎町(アクロン)へ行く事になりました。
しかし、仕事は思うようにいかず、さらにたった一人で週末をその田舎町で過ごさなければならない羽目に陥ったのです。
当然ですが、ビルは、強烈な飲酒欲求に襲われました。
その時に彼を救ったのは、友人でもあり主治医でもあった医師の
「君の体験を他のアルコホリックに返したらどうかね」
というヒントだったのです。
もっとも、このヒントは、彼がその危機に陥る前にも、彼が所属していた教会で実践を始めていた事なのですが、「飲むか飲まないか」「生きるか死ぬか」 の切羽詰まった瞬間にそれが生きたのです。
彼はホテルの電話帳から、教会を探し、彼と同じようにアルコール依存症で苦しんでいる人を教えて欲しいと頼みました。そして10軒の連絡先を教えて貰いました。
すがる様な想いで電話をかけましたが、9軒目までは相手にされず、最後の一軒で見つからなければ飲むと心に決めて最後の電話をしました。この電話の相手が、AAのもう一人の創始者であるDrボブの知人だったのです。
この辺りの話は、実際に下記からお読みになられる事が良いと思います。
「Alcoholics Anonymos」 AAが出版している本です。
「現在のエスプリ」 アルコホリックスの物語
"どん底からの回生への軌跡" 至文堂
ビルは仲間であるボブに体験を語る事によって、飲むか飲まないかという危機を回避する事ができ、ボブも、何度にも及ぶビルの訪問を経て断酒生活に入る事ができたのです。
ボブが断酒を始めたと言われる日が、1935年6月10日なのです。
その後、色々な危機はあったものの、グループとしては全世界に広がり、着実に回復者が生まれています。また、この自助グループでの回復者の誕生は、専門医療の誕生の重要なきっかけでもあるのです。
でも、すべての始まりは、たった二人の出会いだったのです。
●それはトイレの前での出会いから始まった。
後に断酒会の創始者となった松村春繁氏は、色々な人の正しい支援もあって飲酒しない期間が続きました。しかし、それでも度々、飲酒欲求に衝き動かされそうになっていました。
そんなある日、主治医の下司先生から、AAについての講演会への招待がありました。
松村氏は、期待に胸を弾ませて出席したのですが、禁酒同盟の沿革ばかりで「まだAAに触れる気配がない」とトイレに立ったのです。
用足しを済ませた松村氏は、「禁酒同盟の話は堅過ぎて、面白くない。AAの話も出ないかも知れない」と帰ろうとしたのですが、そこで出会ったのが、その講演会に来ていたもう一人の酒害者の妻だったのです。その出会いがあったからこそ、松村氏はもう一度、講演会の会場に戻った� �です。
ちょうどその時、講演はAAの話になり、また、会場の中で、まだ離脱症状で震える身体の仲間とも出会ったのです。