2012年3月27日火曜日

古代・歴史 | ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!


●Machu Picchu

1911年7月、Hiram Binghamが、1人の少年に導かれ、アンデスの山中で発見した。
高度な石組みで作られた町並み。
太陽の運行を計算した神殿も建つ。
高度な文明を作り上げた人々は、突然町を捨てた。
聖なる都市を、スペイン人によって汚染されることを嫌い、自ら町を焼いたのだった。

●楽山大仏

中国四川省、3つの川(大渡河、青衣江、岷江)の合流地点にそびえる、高さ71m、肩幅28m、世界最大の石仏(弥勒菩薩)。
唐の玄宗皇帝の治世。
僧の海通は、自分の不注意で妻子を水死させてしまい、出家した。
およそ30年間、人々に訴え続け、寄付を集め資金を用意、713年大仏建立に着工した。
役人が海通の工事に難癖をつけ賄賂を要求した。「金を出さなければ、目玉を抉り取るぞ。」と脅す役人に対し、海通は自ら目玉をくりぬいた。

海通が命をかけて巨大大仏を建立した理由は?
楽山は3つの川の合流地点にあるため、流れが激しい上、うねりも激しく水難事故が絶えなかった。
しかしここに大仏ができると、流れが穏やかになり、事故も大幅に減った。
多くの人は、大仏のご利益だと信じたが、そうではなかった。
工事の過程に出る大量の土砂を合流地点に捨てることによって、川底を浅くし、流れを緩やかにするという治水工事を行っていたのだ。

●ナスカの地上絵

これまで見たことのない地上絵が発見された。
古代ペルー文明で人々が埋葬される形、屈葬された人間を描いたように見える。
この乾いた大地からは、膝を抱えたミイラが多数出土している。

空から撮影した地上絵を詳しく見ると、墓の部分が女性のような人物の下腹部に描かれていた。

●Moai像


伝説では「Moaiは海辺まで歩いていった。」
実験、Moai増にロープをかけ、6方向から引っ張ると、Moaiは体を左右に揺らし、前進し始めた。

Moaiは海を背に、人々の暮らす集落を見つめている。
Moaiは村の守護神だった。
18世紀初頭、部族間で食糧不足などを巡り争いが起き、敵を倒すには霊力のある目玉を持つMoaiを倒すのが最も効果的だと人々は考えた。
Moaiはことごとく倒されていった。
Moaiを作るために木を切り、森を破壊し、食糧不足に陥っても、島の人々は敵を倒すために競って巨大なMoaiを作り続けた。
誰も文明の暴走を止めることができなかった。

●Chichen Itza

メキシコ人考古学者Alberto Ruz Lhuillierが、の中央にそびえる巨大ピラミッド、『碑銘の神殿Templo de las Inscripciones』の最上部に、階段の入口を発見した。
階段の瓦礫を取り除き、一番下の部分に降り立つまで、4年もかかった。

そして5トンもある巨大石版を発見した。
石の蓋には宇宙船のパイロットのような彫刻が施されていた。

蓋を開けると、身長190cmを超す人骨が、ヒスイのアクセサリーと共に葬られていた。
ヒスイのカケラを組み合わせると。仮面であることが分かった。
その人物は、Palenqueの王、Pacalだった。

熱帯のジャングルの中に、壮麗なピラミッドを建設し、謎めいた文字を石碑に刻んだマヤの人々。
現代のスーパーコンピューターがはじき出した太陽の公転時期を1000年以上前に知り、極めて正確な暦を持っていた。
その暦には、世界終末の時が記されていた。
それは・・・2012年12月22日

●シーギリヤ・ロック Sigiriya (Lion's rock) is

スリランカ熱帯ジャングルに、突如姿を現す巨大な岩の塊。
高さ200m、広さ4000坪以上。
かつてここには壮麗な宮殿が建っていた。
1500年前以上に建てられた空中宮殿。

輪山に描かれた美女達。
妖艶な裸身を、惜しげもなくさらすシーギリヤ・レディ。
壁に水をかけると浮かび上がるレディもいる。(スティックのような物を持った女性の首から下)
その正体は?

一番有力な説は、農業国スリランカにとって重要な田を潤す水、つまり雨の象徴がシーギリヤ・レディだというもの。
ロックの右上に、明らかに人の手が加わった直角のラインが見える。
水路でロックの雨水を集めていたのだ。
巨大な岩山全体が、雨季に雨を貯え、周囲にあった田畑を潤していた。
シーギリヤ・ロックは巨大な灌漑システムだった。

★カッパドキア 地下都市 Cappadocia

海抜1200mを超える高原に、総面積2500k屬謀呂辰胴がる奇岩地帯。
1985年、世界遺産に登録された。
妖精の煙突と呼ばれるキノコ型の奇岩が立ち並ぶ渓谷。
1965年、謎の地下都市が発見された。(Yeralti Sehri Underground City)
地下8階まで掘られ、推定収容人員15000人。
最近新たな地下都市が続々と発見され、今では大小合わせ200以上確認されている。
誰が何のために造ったものなのか?

驚くべき説が浮上した。
「人類終末の日(ハルマゲドン)に備えた100万人規模の地下シェルター」
そしてその終末こそ、現在地球を襲う温暖化と深く関わっているという。

トルコ共和国アンカラAnkara、1923年に首都となった。
近代的都市だが、古代ローマ時代から栄えていた歴史ある町。
今でも当時の遺跡が数多く残されている。

ここからカッパドキアまで、車でおよそ4時間。
道中にある、塩の湖Tuz湖は、トルコを代表する塩の産地だった。
峠を越えると、他の惑星に迷い込んだような光景が広がる。
頭に黒い帽子を載せた、キノコのような岩が乱立する渓谷。
キノコ岩は高いものでおよそ20m。
中には自然のイタズラで、「ラクダ」や群をなす「オットセイ」、「金魚」、「キスをする2人」、「ナポレオンの帽子」と名付けられた岩もある。

「Rose Valley」夕暮れ時、オレンジ色に染まる岩は、色も形もバラの花のように見える。
この世のものとは思えない絶景。


ビジョン、私はcearly今見ることができます

キノコ岩は、どのようにしてできたのか?
数1000年前、この一帯ではエンジェス山(標高3916m)をはじめとする火山が噴火を繰り返していた。

その火山灰が降り積もり、やがて100mを超える凝灰岩の層を作った。
最後の大噴火が起きた時、その上にメッサと呼ばれる鉄分を多く含む硬い岩が降り注いだ。
そして雨や風による侵食で、柔らかい凝灰岩の層は削られたが、硬いメッサの下は岩が傘の役目をして、柱のように残された。

古くからこの一帯には、「地面の下にもう1つの町がある。」という伝説が語り継がれていたが、誰も信じていなかった。
1965年、郷土史家Omer Demrは、ドイツ人考古学者Martin Urbanと共に調査を開始した。
この一帯では人々が、はるか昔から地下に穴を掘り、地下倉庫として利用していた。
地下3mほどの場所に掘られた地下倉庫は、温度変化も少なく、湿度も一定に保たれているため、家畜小屋や野菜置き場として今も利用されている。

Omer氏と地下倉庫のどこかに地下都市への入口があると考えた。
Urban博士は、とある民家の地下倉庫で、組み上げられた石に隙間があることに気がついた。
積まれた石を取り除くと、通路のようなものが現れた。
そこは明らかに人の手によって掘られた地下の迷宮だった。
下へと続く通路を注意深く進むと、円盤状の大きな石版が・・・

まるで進入者を拒むような石版を動かすと、地下へと続く通路が現れた。
そこを下って行くと目の前に開けたのは、何10人も収容できる広い空間。
さらに奥へと進むと、そこかしこにこうした空間が造られていた。
そこで見つけたものは、テーブルのような石、壁に刻まれた十字架・・・
明らかに人が暮らした痕跡があった。
最深部だと思われる空間へ辿り着くと、地上につながる竪穴があった。
竪穴は地下45mまで続いていた。
調査内容は『Underground City』(Martin Urban著)にまとめられ、地下都市の存在はこの後広く世界に知られるようになった。

いったいその内部はどのようになっているのだろうか?
地下都市の1つKaymakliの内部へ向う。
人が1人ようやく通れるほどの通路。
壁の所々に穴が開けられている。
火を灯したランプを置いていたのだろう。
Omer「地下都市で人々は、煤の出にくい動物性の油を使用して明かりを灯していた。」
さらに奥へと進むと、穀物の保管庫。
小麦を挽く臼がある。
パンを焼いていたのだろう。
台所の天井には煤の跡がある。
人々は地下で火を起こし、生活していたのだ。
こんな岩穴で人が暮らすことができたのだろうか?
この地域には今も凝灰岩をくりぬいて造った住居で暮らしている人々がいる。

ズィアーさん一家は、先祖代々岩窟住居に暮らしている。
台所、昔は囲炉裏があり、料理を作っていた。
上の空気穴から煙が出ていくようになっている。
壷やビンの大きさに合わせて岩を削って棚を作り、カマドも石を利用して作られている。
リビングルームは岩の上に絨毯を敷いている。
「夏はヒンヤリ涼しく快適、寒い冬は暖炉に日を入れるととても暖かいよ。」

岩窟住居を利用したホテルもたくさんある。

地下都市保存のため、毎年定期的に耐震調査が行われている。
現地で地質学の調査をしている東海大学海洋学部Omer Aydan教授の調査で、この都市には驚くべきテクノロジーが隠されている事が分かった。
寒気のように空気を流す立坑(全長45m)。
自然の空気の流れを作るために、入口と出口がある。
入口と出口には標高差があり、空気の流れが発生する。
これは流体力学に基づく。

最初に地下都市を築いたのは誰なのだろうか?
最も有力とされているのは、3世紀ごろからこの地に移り住んで来たといわれるキリスト教徒。

↑Tokali Kilise

ところがハリス・イェンブナル博士(Nevsehir考古学博物館館長)は、これまでの定説を覆す重要な手掛かりを発見した。
田園地帯の中で見つかった紀元前730年頃の後期ヒッタイト時代の碑文に、後期ヒッタイトの王が戦いに勝利したことが記されている。
ヒッタイト人は、トルコ・アナトリア半島に紀元前2000年頃、王国を築き、世界で最初に鉄を使用した民族。
博士によると、鉄を手にした彼らが凝灰岩を掘り、最初に地下に暮らし始めた可能性が高いという。

↑短剣(Alacahoyuk 出土)

碑文の近くに岩盤をくりぬいた地下1階だけの空間、現在の住人はコウモリだけ。
ハリス博士はこれらがヒッタイトの時代に作られた地下都市の原形になったのではないかという。
Derinkuyu地下都市の入口の通路の石組みは、ヒッタイトのハットゥーシャ遺跡と構造がよく似ている。

↑Derinkuyu


↑Hattusha Underground Chamber

ヒッタイト人は、鉄のツルハシのようなものを使い、地上から数mの場所に地下空間を作ったと思われる。
つまり地下都市は、紀元前8世紀頃、ヒッタイト人によって地中の浅い部分だけが作られ、それを基にキリスト教徒達が6〜9世紀にかけ、より深く掘り進めていったのではないかというのだ。
ではなぜ、これほど深い地下都市を造ったのだろうか?
大人が5人がかりでようやく動かせる石の扉は、地下通路の要所要所に仕掛けられていた。
こうした仕掛けから、ここは地上に敵が現れた時、人々が避難する場所だったと考えられる。

敵とは?
彼らが地下都市を築き始めた6世紀頃、この地はササン朝ペルシャやイスラム勢力の侵攻で、戦乱に巻き込まれていた。
そんな異教徒の侵略から逃れ、信仰を守り続けたいという思いから、岩窟住居にいたキリスト教徒達が地下に移り住んだのではないか、とハリス博士は言う。

一方キリスト教徒たちの信仰への特別な思いが秘められた場所だったという説もある。
地下7階(地下34m)に造られた教会。
キリスト教徒達が毎日礼拝を行っていたと考えられる。
縦と横に通路のような空間が広がっている。
上から見ると十字架の形という部屋の構造から、教会だと分かった。
静かな空間に身を置き、神の声だけに耳をすますための場所。
究極の祈りの場所として、キリスト教徒達は深い地下都市を築いたという。

近年、新たな地下都市の発掘が相次ぎ、地下都市は200以上あり、全て合わせると100万人が暮らせる計算になることが分かり、新たな説が浮上した。
中世最大の都市、パリでさえ人口は10万人程度。
いったいなぜこのような荒野に、100万人もの人が暮らせる地下都市を築く必要があったのだろうか?
新説とは・・・
この地に新たなノアの箱船を築こうと考えたのではないか?
来るべき人類滅亡の日、キリスト教徒達が何10万人単位で復活の日を待つための大規模なシェルターだった???


医師はどのように考えるか、本

3世紀頃、キリスト教徒達が迫害から逃れ、この地に暮らし始めたのも、この荒涼たる場所が『ヨハネの黙示録』に登場するこの世の終わりの光景に酷似していると考えたから。
カッパドキアの修道士達は、いつの日か訪れる終末の日に備えていたのだろうか?
その終末の時が、今まさに近付きつつあるという説がある。
新約聖書の中で、唯一預言書的な性格を持つ『ヨハネの黙示録』、そこには終末の様子がこのように綴られている。
「時の終わりが来ると、神は天から炎を送る。」
これまでこの言葉は、核戦争を意味する預言とも解釈されてきた。
しかし今地球を襲っている温暖化、それは「神が天から送った炎」という言葉を彷彿とさせる。
涼しく気温が安定している地下都市は、まさに温暖化により人類が住めなくなった地上から避難するためのノアの箱船だったのかもしれない。

『旧約聖書イザヤ書』にはこんな記述がある。
「主が立って地を揺り動かされる時、岩の洞穴、地穴の穴に入るがよい。
主の恐るべき御顔と威光の輝きとを避けて。・・・」

イスラム勢力からの避難場所、修道士達の祈りの場、ノアの箱船。
いずれの説にしても、この地下都市は敬虔なキリスト教徒達の祈りの力と、何よりも深い情念によって造られたことは間違いない。

★アンコール遺跡群 Angkor Wat

平家物語の語り出しに登場する「祇園精舎」。
江戸時代の日本人は、この祇園精舎こそ、アンコール・ワットであると考えていた。
アンコール王朝の歴代の王達は、神を名乗り、自らを祀る寺院を次々と建立した。
カンボジアのうっそうとした密林の中、アンコール・ワットの周辺には、大小700にも及ぶ寺院などの石造遺跡がひっそりとたたずむ。
2001年、上智大学アンコール遺跡国際調査団が、Banteay Kdeiの参道脇から274対もの仏像を発掘した。
そのほとんどが首を切断されていた。

1860年フランス人博物学者Henri Mouhotが、カンボジアの密林をかき分けていた。
目的はカンボジアやベトナム周辺の未開の地に生息する動植物を調査することだった。
Mouhotの前には壮大な石造りの建築がそびえ立っていた。
それから3週間あまり、Mouhotは全てを忘れ、隅々まで遺跡を歩き回り、無我夢中でスケッチし、記録をとった。
後にそれは出版され、アンコール・ワットが世界に知られることになった。

しかし1632年江戸初期、Mouhotが訪れる200年以上前、1人の日本人がアンコール・ワットを訪れていた。
アンコール・ワット中央部、十字回廊付近にある石柱に残る墨書きの文字、そこには「生国」「日本」と記されている。
隣にはそれを記した男の名前があった。
森本右近太夫」いったい何者なのだろうか?
墨書きにはこう記されている。
「父儀太夫の長寿を祈願し、また亡き母の菩提を弔うため、御堂を参拝し、4体の仏像を奉納した。」
釈迦が説法を行ったとされる尊い寺、祇園精舎がカンボジアに実在している・・・

当時東南アジアには朱印船貿易により、日本人町がいくつもあった。(ホイアン、ビニャール、アユタヤ、プノンペン、ルソンなど)(山田長政:江戸時代初期、タイへ渡り、首都アユタヤの日本人町の頭領となった。)

祇園精舎の噂は、海を渡り森本の耳にも届いたのだろう。
「この目で見たい。」激しい衝動にかられた右近太夫はアンコール・ワットを参拝した。
しかしその後、彼の消息はプツリと途絶えてしまう。
350年以上の月日が流れた平成の世、森本右近太夫の消息を知る発見があった。
京都の乗願寺、住職が位牌を整理していたところ、「月経院殿」と書かれた位牌を発見。
それが森本右近太夫の戒名だと分かったのは、右近太夫の別名「森本佐太夫」の名が刻まれていたから。
墓地ではなく庭に、墓石も発見された。
一見庭石のようだが、裏には「月経院殿」が記されている。
右近太夫15代目の子孫、森本信一さん。
森本家では代々右近太夫の消息を探していたが、帰国後、右近太夫が次々と名を変えていたため、行方が分からなくなっていた。

1633年徳川幕府が海外渡航禁止令を発令した。
鎖国の始まりだった。
帰国者にはキリシタンの疑いがかけられた。
そして容赦のない弾圧は、一族も免れなかった。
右近太夫は名前を変え、消息を絶つことで子孫を守った。
17世紀アンコール・ワットを目撃した日本人森本右近太夫は、自ら名を捨て、歴史から消えたが、アンコール・ワットの姿はその後、多くの日本人に祇園精舎として伝えられた。

1970年から20年以上続いたカンボジアの内戦は、アンコール研究を途絶えさせた。
これを復活させるため、上智大学の石澤良昭教授率いるアンコール遺跡調査団が現地で発掘や修復を教え始めた。
そして2001年大量の仏像を発見した。
その数は274体、無残にも半数以上が首を落とされていた。
一体誰が何のために破壊したのだろうか?

水戸徳川家に代々伝えられている『祇園精舎図』は、アンコール・ワットの図面とピタリと一致する。
この元の図面を持ち帰ったのが森本右近太夫(備前 松浦藩に仕えた武士。父は加藤清正の重臣だった。)だと言われている。

遺跡群の周辺には、広大な田園が広がっている。
この水田では年に3回収穫できる。
水の都アンコール、しかし元々アンコール地方は乾燥した熱帯性気候で、乾季にはカラカラに乾いて飲み水にも困るほどの状況になる。
それがナゼ、この地は水を湛えることができたのだろうか?
バライ:貯水と排水を兼ねた巨大な人工池。
雨季、バライに水を蓄える。
乾季、バライの堰を切ると、傾斜に沿って水はゆっくりと下の水田に流れ出す。
土手に囲まれた1つの区画で田植えを行い、稲が根付いたら、最小限の水を残し、さらに下にある次の囲いへと水を流してゆく。
田越し灌漑」と呼ばれるこの水利システムによって、乾燥地という悪条件を見事に克服した。

↑フィリピン


↑新潟県山北村の田越し灌漑

しかし水を制するだけで巨大な王国を築き上げることは可能なのだろうか?
答えは石の中に眠っていた。
アンコール・ワット北東Banteay Kdei、石を積む際、鉄のカスガイが使われていた。
アンコール・ワットには重さ1.5kgの頑丈なのカスガイが700〜800個使われている。

どこで製鉄を行っていたのだろうか?
タニ村では、車の部品などを利用して農具や日用品を作っている。
この村では代々農業の合間に鍛冶仕事をする。

この地で農業が栄えたのは、灌漑施設だけでなく、一般に普及していた鉄の農具が重要な役割を果たしていたと考えられる。
また遺跡の壁に刻まれた優美で繊細な女神や天女の舞、この造形美も鉄の彫刻刀なしでは生まれなかった。

王朝を訪れた中国人、周達観は元の成宗の命によって真臘招撫の隋奉使の従行に選ばれ、1296年真臘へ赴き、1297年帰国した。
帰国後『真臘風土記(しんろうふどき)』を著した。
「王は身に製鉄をはめ込み、たとえ刀や矢の類が体に届いても、害をなすことができない。」
つまり王は鉄の鎧を身に付けていたというのだ。


胎児の動きはどのような感じでしょうか?

Jayavarman8世(1243〜1295)は前代未聞の王だった。
アンコールの歴代の王達は、自らを祀る寺院を立てるのが慣わしだった。
しかし8世は、50年近い治世の間に1つも寺院を建立していない。
その理由はこれまでアンコール王朝の経済破綻のためだとされていた。
8世とは対照的に次々と寺院を建てたのは、先の王Jayavarman7世(1181〜1218)。
カンボジアでは「7世の時代に習う」という言葉があるほど偉大な支配者の代名詞として今も尚人々の尊敬を集めている。
Jayavarman7世の寺院として最も有名なのは、アンコール・トムの中心に位置するバイヨンBayon寺院。
四面仏顔像をはじめ、合計196もの観世音菩薩の面が彫られている仏教寺院。

実はこのバイヨン寺院には、長い間研究者の間で仏教寺院なのか、ヒンドゥ教寺院なのか、意見が分かれていた。
仏教の保護者であったJayavarman7世が建立したにも関わらず、その壁面はヒンドゥの神々で埋め尽くされていたからだ。

しかし近年その議論に終止符が打たれた。
意図的に改宗されたという決定的証拠が見つかった。
石版の蓋の下に観世音菩薩像が見つかった。
さらにバイヨン寺院全体に張られていたはずのブッダの浮き彫りが、ねこぞぎ削り取られている。
いったい誰が何のためにそんなことをしたのだろうか?
その答えは2001年の発見で明らかになってきた。

仏教を篤く保護していたJayavarman7世の死後、強力な力を持ったのは仏教勢力だった。
しかしJayavarman8世は彼らから支持を得られず王位につけなかった。
その時ヒンドゥ教の神官が彼にささやいた。
「あなたが王になれぬのは、仏教徒が力を持ちすぎたためでございましょう。」
「王こそが神だ。」
「ええ、あなたこそがヒンドゥの神の化身でございます。」
この言葉に力づけられ、忌まわしい仏教勢力に真向から対立。
血で血を洗う長い戦いの末、ついに王座についた。
そして下した命令は・・・「仏を葬り去れ!捨てるだけでは生ぬるい。首を切れ!」

発掘された仏像は、首こそ落とされているが、それ以外目立った傷はほとんどない。
推測では1体1体布で保護して丁寧に石目を見て首を落としたと考えられる。
それは美しい仏の顔を傷つけたくないという信仰心からだった。
民衆にとって、仏もヒンドゥの神も、分け隔てなくありがたい神だった。
埋められていた場所には、供養の跡が残されていたという。

Jayavarman8世の大改革が始まった。
自らの権力を誇示するため、寺院から仏教的なものを排除した。
アンコール・ワットも大改修が行われ、壁には金箔が張巡らされ、金色に輝いていた。
Jayavarman8世の治世直後に都を訪れた中国の役人周達観も『真臘風土記』に記している。
「金色に輝く都の壮観さに感服した。」
これまでこの「黄金の」記述は、中国人特有の誇張表現だとされてきた。
なぜならJayavarman7世の度重なる寺院建設により、財政は傾き、8世の頃にはすでに王朝は滅亡に向かい空前の灯だったというのが従来の学説だった。
しかし古澤教授の発見により、Jayavarman8世の寺院をリフォームするという合理的な政策が、7世の時傾いた王朝経済の基盤を建て直し、その後100年に及ぶ栄華をもたらしていたことが分かった。

★モン・サン・ミッシェル Mont-Saint-Michel

フランス、ノルマンディー地方の海岸線にある世界で最も美しい世界遺産。
海上にそそり立つ岩山と一体となり、荘厳な教会がそびえ立つ。
世界中から観光客が押し寄せるこの場所は、中世の巡礼地。
だが一時期、人々から全く忘れられた存在になっていたという。
それはいったいナゼだったのか?
再発見物語とは?
ナゼこのような岩山に70mもの高層建築を築くことができたのか?

Mont-Saint-Michelは現在堤防で陸と結ばれ、車に乗ったまま上陸することができる。
島の周囲はおよそ1辧教会は高さ80mの岩山に建っている。
年間320万人の観光客がやってくる。
中でも訪れる人に人気なのが、参道に店を構えるLa Mere Poulard。
厨房の中には泡立て器でかき混ぜる軽快なリズムが響き渡る。
泡立てた卵をフライパンに入れ、薪を焚いた直火で焼き上げれば、外はこんがり中はふんわりの巨大なオムレツが姿を現す。
仕上げにリンゴの蒸留酒でフランベし、砂糖をふりかければ出来上がり。
このオムレツは、元々巡礼者に素早く栄養のある食事を提供するために誕生したもの。
この島の名物。

土産物屋やホテル、レストランがひしめくGrand Rue通(参道)を歩くこと20分。
急な階段を登ると修道院の建物が見えてくる。
さらに階段を登ってようやく教会に辿り着く。
そこは荘厳な雰囲気が漂う神聖な場所。
ミサが行われている。

ここがキリスト教の聖地となったのは8世紀の事。
今でも修道士、修道女は当時と変ることなく厳しい戒律を守りながら、祈りの日々を送り続けている。
だが、誰からも忘れ去られた時代があった。
Mont=山、Saint=大天使 Michel=大天使ミカエル
尖塔の頂に立つ大天使ミカエルは、天の軍勢を率い、悪魔と戦う最強の天使として崇められてきた。

海に浮かぶこの地に、人々は天空に浮かぶ神の国のイメージを重ねた。
ここはヨーロッパを代表する巡礼地となった。
1337年、フランスの王位継承権にイギリスが干渉したことから100年戦争が始まると、イギリスの対岸にあるこの島は、要塞に変えられた。
1789年、フランス革命が起こると、政治犯を収容する牢獄に改造された。
罪人達の流刑地となったこの島には、陰惨なイメージがつきまとった。
そのため誰からも忘れ去られた存在となった。
しかしMont-Saint-Michelの価値を再発見する人物が現れた。
『Les Miserables(ああ無情)』で知られるフランスの文豪Victor-Marie Hugo(1802〜1885)。
1831年Hugoは失意の中にあった。
愛する妻Adeleが自分の親友と恋に落ちたのだ。
そんな中であったのが美貌を持ちながら売れない女優Juliette Drouetだった。
Julietteにひと目惚れしたHugo、Julietteとしても既に劇作家として大御所だったHugoは魅力的な存在だった。
かくしてその後半世紀に渡って続く2人の関係が始まった。
当初人目をしのぐ関係だった2人は、パリを離れ逢瀬を重ねるようになり、フランス各地を旅しては愛し合った。
そして出会いから3年後1836年、2人で訪れた場所がMont-Saint-Michelだった。
Hugoはその美しさに感動すると共に、歴史あるフランスの至宝が荒廃し、誰からも忘れ去られた存在になっていることを嘆いた。
そしてHugoは何枚ものデッサンを書き、その美しさを讃える文章を発表した。
中でも人々の心をとらえたキャッチコピーが「Mont-Saint-Michelはフランスにとって、エジプトにとってもピラミッドに値する。」
この言葉をキッカケに、一目Mont-Saint-Michelを見ようという旅行者がフランス中から集まるようになった。
さらに人々の関心の高まりを受け、時の皇帝ナポレオン靴1863年、Mont-Saint-Michelを牢獄として使用することを中止し、歴史的建造物として保存することが決まった。


HugoはMont-Saint-Michelのどこにそれほど魅せられたのだろうか?
彼はMont-Saint-Michelそのものの美しさだけではなく、Mont-Saint-Michelを取巻く自然の驚異にも魅せられていたのだ。
月の引力で起こる潮の満ち引きが1年でも最大となる大潮の日。
日の出と共に突如、Mont-Saint-Michelを取り囲む干潟に大量の海水が流れ込み始める。
潮が満ちる速度は毎分60m、馬の駆け足と同じ速さがあると言われる。
この急な潮の流れはかつて浅瀬を渡ろうとした巡礼者の命を奪うことさえあった。
大潮の日の干満の差は15m。
世界最大級。
瞬く間に干潟の中にあったMont-Saint-Michelは海に浮かぶ孤島となった。
まさにHugoの言う、海上のピラミッド。
およそ1時間後、潮が急激に引き始め、それまで海だったところに陸地が現れる。
まるで旧約聖書に記されたモーゼが、海を2つに割って道を作った話を彷彿させる。
そのためキリスト教徒は、この光景を奇跡として語り継いできた。
こうした自然の驚異を目の当たりにして、人々はMont-Saint-Michelが世界に2つとないフランスの至宝であることを再発見した。

キリスト教徒達がこの島に聖堂を建築し始めたのは8世紀のこと。
このように潮の満ち引きが激しい島に、どうやって大量の石を運び、聖堂を建てることができたのだろうか?
Mont-Saint-Michelに現存する中で、最も古いNotre-Dame-sous-Terre聖堂。
1960年の修復時、偶然見つかった壁である。
調査の結果10世紀頃のものだと分かった。

初期の建設者は、30劼睥イ譴榛寮仂譴ら、最も硬い石を選んでここまで船で運び、岩盤の上に1つ1つ積み上げていった。
こうして岩山の頂に最初の聖堂が建てられると、やがてMont-Saint-Michelに修道士が暮らすようになり、多くの巡礼者が訪れるようになった。
そして修道士達の手によって、聖堂や修道院も徐々に建て増しされていった。

中でも最大の工事が行われたのは12〜13世紀。
Mont-Saint-Michelでは「La Merveille(西洋の驚異)」と呼ばれる建築が行われた。
岩山には十分な場所がなく、上へ上へと建て増していくしかなかった。
最も困難を極めたのは、祭壇がある内陣の建設。
何度建て直しても崩壊を繰り返し、11世紀には支柱の根元まで崩れたという。
そんな内陣を完成させたのはMont-Saint-Michelの修道院長となったギョーム・デストゥートヴィル。

ギョームの指揮のもと建てられた内陣は500年経った現在まで崩壊することなく、天高くそびえ立っている。
12世紀フランスで始まったゴシック建築では、外壁の外側から支えることで建物の高層化が可能になった。(ParisやRouenのNotre-Dame大聖堂や、Notre-Dame d'Chartres)
ギョームはゴシック建築の技術の推移を集めてMont-Saint-Michelの内陣を完成に導いた。

さらに高層化するための工夫が施されている。
食堂の天井は、柏の木で造られているが、船の底をひっくり返したような形。
元々この地方では、船造りが盛んだったので、その技術で生じたのだが、これにより天井を軽くて丈夫にすることができ、建物を高層化するのに成功した。

高層建築を可能にしたのはこうした技術だけではない。
最上階には修道士達が瞑想するための空中回廊と庭園が造られた。
教会が岩山の上にあるため、十分なスペースがなく、普通なら地上に設けられる庭園と回廊を、様々な知恵を用いて建物の上に造った。
技術だけではなく、彼らの信仰の力も西洋の驚異と言われる建築を可能にしたに違いない。

しかし1337年、100年戦争が始まると、要塞に改造された。
15世紀に造られた城壁は、イギリスの攻撃を完全に退ける強固なものだった。
イギリスは引き潮の時、近辺に大砲を置き、30年間攻撃し続けたが、城壁を崩すことはできなかった。

1789年、フランス革命が勃発し、政治犯を収容する牢獄に改造された。
Mont-Saint-Michelの地下には牢獄として使われた頃の跡がある。
その頃作られた木製の大車輪。(直径6m)
中に囚人を入れ、ハツカネズミのように歩かせることで車輪が回り、ロープを手繰り寄せて外から食料などの物資が引き上げられるようになっていた。

そもそも8世紀にキリスト教の聖地となる前、ここは「死者の山」を意味する「モン・トンブ」と呼ばれる島だった。
1300年前、対岸のAvranchesという町に住むAubert司教の夢の中に、大天使ミカエルが現れた。
そして「かの山に我が名を讃えし聖堂を建てよ。」と言った。
しかし大天使ミカエルはあくまで聖書に登場する伝説の存在。
司教はお告げをすぐに信じようとはしなかった。
そこでミカエルは、本当に現れていることを信じさせるため、Aubertの頭に指を突き刺した。
Aubert司教は目覚めた時、夢に見た通り頭に穴があいている事に驚き、ついにお告げを信じた。
そして708年モン・トンブに大天使ミカエルを祀る小さな聖堂を立てた。
それが聖地Mont-Saint-Michelの出発点だと言われている。

それは単なる伝説ではなく、事実だったことを証明するものがAubert教会に残されている。
St. Gervais教会、Aubert司教の頭蓋骨とされているものが9世紀に発見された。
伝えの通り穴のあいたドクロが見つかったことで、信者達は大天使ミカエルの伝説を現実のものとして受け止め、西洋の神秘を感じ取っていた。
こうしてモン・トンブはミカエルにちなんだキリスト教の聖地となり、徐々に巡礼者が集まるようになった。

ここを訪れた巡礼者に、驚くべき奇跡がたて続けに起きたという。
数々の奇跡の物語が記された本が残っている。
中でも有名なのは、巡礼に訪れた妊婦におきた奇跡。
ある妊婦が巡礼から戻る途中、激しい陣痛に見舞われ、夫は助けを求めにいったが急激に潮が満ちてきて、誰もが手遅れだと思っていた。
ところが彼女が大天使ミカエルに祈りを捧げたところ、妊婦の周りだけ潮が引いてゆき、無事出産できた。
さらにイギリスとの100年戦争で、30年間イギリスの攻撃を退けられたのも、単に城壁が丈夫だったからだけではなく、大天使ミカエルが守ってくれたのだという。
今でも大天使ミカエルは、フランスを守った聖人として、人々から感謝されている。

近年重大な異変が起きている。
Mont-Saint-Michel湾では、昔から漁業が盛んに行われてきた。
外洋から守られ、潮の満ち引きが激しい湾は、ムール貝の養殖に適している。
干満の差が激しいこの地で作業しやすい水陸両用車が走っている。

漁港Cancaleのレストランでは、ムール貝を堪能することができる。
中でも名物は、蒸したムール貝をトマトソースやホワイトソースで食べるMariniers。

しかし近年この湾では、かつてのように豊富な魚介類が獲れなくなってきている。
海に浮かぶ大修道院と謳われたMont-Saint-Michelも、大潮の日でない限り、周囲の干潟が完全に海に沈むことも少なくなっている。
それはなぜか?
19世紀になると、観光客が急増したため、1879年2年間の工事を経て、陸と島を結ぶ堤防が築かれ、鉄道も敷かれた。
その堤防が海に悪い影響を与えている。

調査したところ、Mont-Saint-Michel湾は130年前と比べ、水深が70cm近くも浅くなったという。
観光のために造られた堤防が、自然の潮の流れを止め、土砂が堆積する大きな要因になっている。
今では島の周りに堆積した泥が陸地となり、牧草地が広がり始めている。


「海の中にそびえ立つMont-Saint-Michelを見たい。」という願いがフランス政府を動かし、2006年6月から、EUの協力を得て本格的な対策に乗り出した。
第1段階として、湾に注ぐ川にダムを建設し、人工運河を造る工事を始めた。
ダム上流に水を溜めて、引き潮の時一気に水を流すことで沈殿物を流す。
第2段階は、現在使われている堤防や駐車場を全て撤去する。
潮の流れを回復させるため、堤防の代りに陸と島を結ぶ歩行者専用の橋を架ける。
プロジェクトには約2億ユーロかかる。
1300年に及ぶ歴史の中で、様々な人の思いが重なり合ってきたフランスの至宝であるMont-Saint-Michelを守りたいという人々の思いは受け継がれている。



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